第12回「再出発への決意。」 文・山雄樹


熊本地震発生から1週間となった4月21日、天気は雨だった。
アンデルソン、キムテヨンといった外国籍選手、また、サンフレッチェ広島ユースの練習に参加し、コンディションを整えながら、自家用車に食料などの支援物資を積み込み、陸路、熊本に向かっていた佐藤昭大など、一部を除くほぼ全員の選手が、熊本県民総合運動公園内にあるクラブハウス(スポーツ交流館)に集まっていた。

熊本を訪れていたJリーグの原博美副理事長や職員から、支援の提案をきき、清川浩行監督をはじめとするチームスタッフ、池谷友良社長らクラブスタッフからは、今後の活動方針について、いくつかの選択肢を示され、選手たちは、徹底的に思いの丈をぶつけ合った。

その話し合いを受けての記者会見が午後4時から開かれるということで、熊本県内の放送局や新聞社だけでなく、中央のメディアも含め50人ほどが、クラブハウスの一室に集まっていた。依然、私が勤務する熊本放送では、未曽有の被害や、刻々と移り変わる状況などによって混乱が続いていた。私が、この取材への出発準備を進めようすると、ニュース番組を制作する報道部を指揮するデスクのひとりから「スポーツだからと言って、何でもかんでも取材に行かないでくれ!」と罵声を浴びた。

JNN(TBS系列)の系列局から、多くの記者、カメラマン、音声を含むアシスタントという取材クルーが協力という形で、取材活動に参加していたが、それでも、すべてを網羅することは難しく、取材クルーの不足を恐れての発言だった。しかし、ロアッソの事情を身近に知る者として、「ロアッソの現状、きょう何が話し合われて、何が決まるのか」を自分なりに丁寧に説明し、承諾を得て、出発に漕ぎ着けた。

一方、近年、ロアッソの熱烈なサポーターでもある先輩アナウンサーからは「今こそ、サッカーで熊本を元気づけてほしいと伝えてきてくれ!」と力強い言葉を受けた。宮城県にあるTBC東北放送のクルーと現地に向かい、到着したクラブハウス内の一室では、いつもスタジアムや練習会場で会う顔見知りの記者やアナウンサーと、自身の被災状況や生活など、近況を報告し合った。同業者に会うと、不思議とほっとして、お互いに笑顔になった。

予定時刻より30分以上が過ぎていたと思う。まず、会見場に姿を見せたのは池谷友良社長だった。
「5月15日のアウェイ、千葉戦にむけてスタートしていきたい」という結論が発表された。ただ、現実は、地震発生から1週間たって、ようやく集合ができただけで、「まだ車中で寝ている選手もいる。家が倒壊した選手もいる。家族のケアも必要」という状態だった。全選手の3分1にあたる9人が避難所での生活や車中泊を強いられるなど、「プロサッカー選手」というより「被災者」そのものだった。

すでに、中止となった17日(日)の第8節京都サンガF.C.戦(アウェイ・京都市西京極総合運動公園陸上競技場兼球技場)や、19日(火)に中止が決まった23日(土)の第9節横浜FC戦(ホーム・うまかな・よかなスタジアム)に加え、この日、第10節モンテディオ山形戦(29日・NDソフトスタジアム山形)、第11節愛媛FC戦(5月3日・うまかな・よかなスタジアム)、第12節北海道コンサドーレ札幌戦(5月7日・札幌ドーム)の中止が、それぞれ決まった。トレーニングは、4月24日(日)まで休止、25日(月)から自主練習、5月2日(月)から全体練習再開という日程となった。
 
自主練習の場所として熊本市東区にある人工芝のグラウンド「桜木ふれスポパーク」をなんとか使用することができた。このグラウンドは、スポーツ振興くじ(toto・BIG)助成を利用し、熊本市の総合型地域スポーツクラブNPO法人桜木ふれあいスポーツクラブが建設、完成したばかりで、4月17日にオープニングイベントを控えていた。

ロアッソは、2016年1月、桜木ふれあいスポーツクラブと業務提携を結んで、主に2016年4月に発足したジュニア(12歳以下)のホームグラウンドとして使用していた。オープニングイベントは5月5日に延期されたが、地域の協力もあって、このグラウンドを、選手たちの自主トレーニングの場として使用できたことは非常に大きかった。また、自主練習初日の午後には、浦和レッズから西川周作、槙野智章という日本代表選手や李忠成、熊本県出身者で浦和から大谷幸輝、ヴィッセル神戸から田中英雄、三原雅俊が訪れ、およそ200人の子どもたちを喜ばせた。

一方、5月2日から再開が予定されていた全体練習の場所は、「これまで通り、県民総合運動公園サッカー場・ラグビー場でできるのか、近県に出て行くのか調整したい」と池谷社長が話した通り、見通しが立っていなかった。メーンスタジアムのうまかな・よかなスタジアムは、救援物資の輸送拠点となり、全国からの物資を積んだ大型トラックが列を作り、物資を運び出す自衛隊の車両がひっきりなしに出発していった。ロアッソが主な練習会場としている県民総合運動公園の補助競技場は、県のドクターヘリの駐機場になっていた。また、運動公園内は、もっとも被害が大きかった益城町に隣接するという立地から、救援活動にあたる自衛隊などが野営し、まさに前線基地となっていた。
 
そうした状況の中、5月15日、フクダ電子アリーナでの第13節ジェフユナイテッド千葉戦からリーグ戦に復帰することが決まった。まだまだ地震が続いているなか、練習場所はもちろん、選手達の安心、安全な生活も確実なものとは言えないなかで、この決定に至るには、困難を極めた。Jリーグの事情、クラブの方針、選手たちの思い、そして、被災という重い現実が交錯していたからだ。

池谷社長は次のように語った。「クラブとしては、『(試合を)やる』という方向で、いくつかの選択肢を示して話をしたが、最初は不安や疲労から選手の反発が強かった。僕らがちょっと読み違えたのは、選手の家族の安全や安心を担保したうえで、県外に出て行って、サッカーができる環境をつくることが一番いいのかなと思っていたが、選手から出てきた意見は、逆に、『この熊本でやりたい。家族のそばにいたいということ』だった」クラブのトップとして、クラブの方針と選手たちの思いが食い違ったことに戸惑っていた。

また、Jリーグの原博美副理事長は、「Jリーグクラブだけでなく、サッカー協会、サッカーファミリーができることは何でも手伝う。全力でサポートする」と語り、報道陣の前でJリーグクラブや日本サッカー協会、自治体などが提案しているさまざま支援策を、具体例として挙げていった。

まず、地震の影響で熊本を離れている選手も避難先や帰省先のJリーグクラブで練習ができること。実際に、アンデルソンは代理人の伝手を頼り柏レイソルで、上原拓郎は古巣のコンサドーレ札幌で、佐藤昭大は自らが育ったサンフレッチェ広島ユースで、それぞれトレーニングを積むことができた。

そして、試合にむけては、4月29日に予定されていた第10節モンテディオ山形戦(NDソフトスタジアム山形)について、Jリーグのトップパートナーであるルートインホテルズが、選手だけでなく、家族も含めて、受け入れ態勢を整え、5月3日にホーム・うまかな・よかなスタジアムで行われる予定だった第11節愛媛FC戦については、愛媛FCは、ホームゲームとアウェイゲームの入れ替えを提案した。また、同じ愛媛FC戦にむけては、元日本代表監督岡田武史氏がオーナーをつとめるFC今治(2016年まで四国リーグ、2017年からJFL・日本フットボールリーグに昇格)が、練習場所と宿泊場所を提供することを申し出た。同じ九州のJリーグクラブサガン鳥栖は、練習会場が準備できること、ロアッソのホームゲームの会場としてホームスタジアム・ベストアメニティスタジアムを使用できることを伝えていた。そして、静岡県御殿場市にある時之栖スポーツセンターや、大阪府堺市にあるJ-GREEN堺(堺市立サッカー・ナショナルトレーニングセンター)といった大規模なスポーツ施設、鹿島アントラーズのホームタウンのひとつ茨城県神栖市波崎は、チーム全体、選手の家族を含めて受け入れることが可能だという。

Jリーグも、原副理事長によれば「家族も含めて県外に一時的に避難し、練習すること」がロアッソにとって、最善の策だと考えていた。一方で、「(リーグ戦復帰の時期を)決断しないと、逆に、支援を申し出てくれたところに(宿泊予約の関係などで)迷惑がかかる。できるだけ早く判断してほしい」という事情もあった。さらに、ロアッソだけが長期間に渡ってリーグ戦から離脱することになれば、J1昇格やJ3降格が絡むJ2というリーグで日程の消化という問題も出てくる。

Jリーグ側は、2011年の東日本大震災の後、ベガルタ仙台、鹿島アントラーズ、水戸ホーリーホックの復帰をサポートした専門の職員が相談に当たるとしていたが、災害の規模の比較ではなく、今回は、ロアッソという1クラブだけがリーグ戦に参加できなくなったことなど、Jリーグがかつて経験したことのない状況に直面したことや、わずか3日間、「前震」から「本震」までのおよそ28時間だったことを考えれば、実質、1日あまりの間に、震度7の揺れに2回も襲われ、選手自身の被災状況が尋常ではなかったこともあり、事態の打開は容易ではなかったし、その策の決定さえも困難だった。

倒壊した自宅の片づけもままならないなか、県外に生活の場を移すこと、避難所で暮らす祖父母まで連れて行くこと、子どもたちが友人と離れ離れになることなど、さまざまな問題を解決することは不可能だった。原理事長は「こちらが思った以上に、選手たちは『ここにいたい』と『大変だけどそうしたい』という気持ちが強かった。選手たちの熊本に対する強い思いを感じた。それは、(人として)あるべき姿」と理解を示した。

その一方で、原副理事長は「選手たちが大変なのはわかるが、警察や自衛隊やドクターは、何かあれば出ていかなければならない。サッカー選手もサッカーをやれる準備を常にしておかないといけないと思う」、池谷社長は「選手はサッカーマンであるし、サッカーを仕事にしているということ」と語った。原氏は、現役選手時代、日本代表でならし、池谷社長もまた、日立製作所サッカー部初のプロ契約選手。立場は違えど、「サッカーで飯を食ってきた」2人で、「選手たちの仕事、やるべきことはサッカー」という考えを持っていた。

池谷社長、原副理事長に続いて、登場したのは、現場を指揮する清川浩行監督だった。髭をたくわえ、随分とやつれた印象だった。

清川監督の表情は、まるで自分たちを映す鏡のようだった。私自身も、4月16日午前1時25分に発生した本震以来、自宅の水道やガスが止まったままで、一度も入浴ができていなかった。幸い水が出た局内で洗顔と歯磨きだけは何とか済ませるような状態で、頭髪の乱れも直すことができず、頭にタオルを巻いての取材活動だった。局内でも、避難所から通うスタッフがいたし、先輩アナウンサーは「子どもが地震を怖がって、夜、自宅に入らたがらない」と、家族3人が車中泊、後輩の女性アナウンサーでさえ、局内で寝泊りするという日々が何日も続いていたからだ。

清川監督も、クラブハウスに避難していたひとりだった。同じくクラブハウスに身を寄せていた清武功暉は「本震発生から2、3日は、(清川浩行)監督と会社の人(クラブ職員)が泊まっていたので、クラブハウスに一緒に泊まっていました。なかなか、監督と一緒の部屋で寝るということはないので、サッカーについてなど、いろんな話をしました」と話した。選手と寝食をともにした清川監督は、選手の体を心配し、あるだけの食材を使って、調理までしたという。

その清川監督は「選手のダメージが大きい。選手のメンタルや家族のケアが一番心配」と優しい性格そのままに、選手とその家族を思いやりながらも、「サッカーを通して、熊本の方に、少しでも笑顔や勇気を届けたい。選手は覚悟を持ってやるということを私と確認した」と意気込みを語った。

選手たちは、プロサッカー選手として「励ます」役割を期待されていたし、しかし、被災者として「励まされる」立場でもあった。

まず、熊本市出身のキャプテン岡本賢明は、「明日からサッカーやろうという清々しい気持ちでできるわけないし、避難所で生活する人や家族を見ていると、自分がサッカーやっていていいのかと思います」「15日をめざすということですが、選手皆がまだ今の段階では不安ですし、いろいろ思っていることがあります」「まずは、普通の生活ができていないということ。サッカー選手としては、コンディション作りなど体調管理もこれから大事になってきますが、難しいと思います」と、大きな目をさらに見開いて動揺を包み隠さず話した。それでも、「最後に出てくるのは、僕はサッカー選手だし、サッカーをすることでしか自分の力を発揮できないと思っています」「難しい決断でしたが、僕たちのやることはサッカーだということはまとまっていました。やると決まったら、全員で力を合わせてやらないといけないです」「僕たちがやるべきことはサッカーだし、試合です。そこに全員が持っている力を120%出して全力でやっていかないといけないです。そうすることで、もしかしたら、熊本に元気を届けられるのかなという気がします」と前を向いた。ただ、その姿は、力を振り絞り、無理にでも前を向こうとしているように見え、痛々しかった。

私は、「ファンやサポーターだけでなく熊本県民には、ロアッソに頑張ってほしいという思いがあるはずです。どんな姿を見せたいですか」と、激励や期待を込めて質問した。岡本は、「僕たちがサッカーをやることがいいと熊本の方全員が思っているかどうかはわからないですけど、僕たちはそれが仕事であり、使命だし本当にサッカーを通してという形でしか、元気を届けられないと思うので、信念を持ってやっていきたい」と答えてくれた。

自宅が全壊した副キャプテン畑実は、自分が住む益城町の惨状について、「歩いてみたんですけど、自分の通学路や思い出の道が被害を受けたので……」と声を詰まらせ、涙がこぼれ落ちないように天井を見上げた。しかし、「思い出すだけで辛いですけど、前に進むしかないので、自分たちはサッカーをやりながら町の力になりたいと思います」と気丈に語り、「自分の生活は、今の状況では先が見えない。でも、チームの先が見えること、頑張れる目標ができたことは、自分にとってもよかったと思います。自分のことや家族のことしか考えられなくて余裕がなかったですけど、(チームメート)皆に会って、こうやって次が決まったので、精一杯、熊本に元気を届けるために頑張っていきたいです」と話した。チームの方針が決まったことで、畑自身も前向きになることができたのだ。

隣県の大分出身だが、地元に帰ることなく熊本に残って活動を続けていた清武は「こういう経験をするとは思っていなかったし、悲しい出来事ではありますけど、こういうときこそ僕らロアッソが、クラブの理念(「県民に元気を」「子ども達に夢を」「熊本に活力を」)にあるように、しっかりと動いて、県民に元気を届けられればと思います」「自分たちのコンディションをしっかり戻さないといけないと思いますし、僕達は最後まで諦めずに走り抜くということを開幕からずっとやってきているので、そこを強化して戦っていきたい」とエースストライカーらしく冷静に淡々と意気込みを語った。

そして、熊本県宇城市出身で(チームの副キャプテンでもある)巻誠一郎。最初からその声は震えていた。「熊本で育って、今、熊本のチームにいて、熊本のことが大好きだし、今、正直、そんなにサッカー頑張ろうというような気持ちにもなりにくい部分もあります。でも、僕らはプロとしてゲームをやることによって、県民の人たちに勇気だったり、いろんなものを発信したり、受け取ったり、しなければいけないと思っています。どこかで僕らも前を向いて進まなければならない。コンディションや気持ちの面からも千葉戦がギリギリのところでした。やると決めたからには、プロとして、ひとりの男として、やらなければいけないと思っています」。そして、「僕が大好きだった熊本の街や皆の笑顔が失われていく。そういう状況を何とかしたいといもありますし、きょう(チームメートと)話していても、うちの選手のなかにも、家がなくなってサッカーができる環境じゃない選手もいます。でも、皆、熊本に残って熊本のために何かをしたいと言ってくれた。感謝の思いしかありません」と続けた。思いが溢れ出し、巻は涙を堪えられなくなった。「本当は、感情を抑えて、皆さんに自分の思いを伝えなければいけないと思っているんですけど、本当に熊本が好きなので、感情を抑えられないです。すみません」と謝った。

メディアのなかにも、私も含め、巻の言葉や表情に涙する者が少なくなかった。私は、「熊本に勇気や元気を届けられる存在なので、何としても頑張ってください」と、思いのまま、もはや質問の体をなしていない言葉を投げかけた。巻は、「僕らも勇気を届けたい。そのためにできることは何でもやろうと思っています。僕らも、いろんな被災した方々に会って、逆に『頑張って下さい』という声をいただけるので、そこで僕らも勇気づけられています。お互いに励まし合って、エールを送り合って、また、今までみたいな素晴らしい熊本を、今まで以上の熊本をつくっていきたいと思います。僕ら皆の力で」と語った。真っ直ぐ前を向いた瞳は涙に濡れていたが、力強さに満ちていた。

会見の最後に、巻は「すみませんでした。ちゃんと自分の思いを伝えられなくてすみませんでした」と、再び報道陣に謝ったが、その思いは十分すぎるほどに伝わった。

4月21日、選手たちはトレーニングと復興支援活動を両立させながら、リーグ戦復帰への準備を進めること、つまり「熊本とともに歩むこと」を決意したのだった。


◇著者プロフィール:
山雄樹(やまさき ゆうき)
熊本放送(JNN・JRN)アナウンサー。1975年(昭和50年)6月16日、三重県鈴鹿市生まれ。立命館大学産業社会学部を卒業後、1998年熊本放送入社。主にスポーツの中継アナウンスや取材、番組制作を担当。系列のアナウンサーの技量を競う「アノンシスト賞」では、「テレビスポーツ実況」部門で二度、「ラジオスポーツ実況」部門で一度、九州・沖縄ブロック審査で最優秀賞、2015年度は、全国審査で優秀賞を受賞した。
 チーム発足時からJ2ロアッソ熊本の取材や応援番組の司会を続け、2008年のJ2参入以降は、スカパー!Jリーグ中継でホームゲームの実況をつとめる。