6月27日に現役引退を発表した藤田俊哉。
 今年1月31日に千葉との契約が満了。香港リーグへ参加するとされる横浜FCからのオファーもあったが、藤田が選んだのは、オランダからの指導者としてのオファーだった。
 オランダ1部リーグのVVVフェンロから、来夏、指導者として受け入れるという申し出があったのだ。7月3日の引退発表会見では、フェンロのハイ・ベンデル会長からの「うちの下部組織やスクールでオランダサッカーの基本を学び、その後は藤田自身の努力でプロの監督としての地位を勝ち取ってほしい」というメッセージも紹介された。
 オランダへ渡るまでの1年間は、日本でS級ライセンス取得を目指すという。
「選手がヨーロッパへ出ている中、元Jリーガ―が欧州で指導者を目指す形あがあってもいい。これからの道のりは険しいが、非常にやりがいがあるし、選手のときと同じように挑戦していきたい」
 引退会見であると当時に、再出発会見となった席上、藤田は力づよくそう語った。

 95年にジュビロ磐田でプロデビューした藤田は、背番号10を背負い、ステージ優勝6回、リーグ制覇3回、アジア王者1回と黄金期のチームを牽引した。01年にはJリーグMVPも受賞。32歳でオランダ・ユトレヒトへ移籍。帰国後、05年からは名古屋でプレーし、07年には史上初のJ1400試合出場を達成。フォワード以外で唯一J1通算100ゴールもマークしている。そして、J2熊本、千葉でもプレーした。

「得点をすることは好きですけれど、なによりも勝つことが一番大事だから。自分のゴールを鮮明にすべて思い出すことは出来ないんです。Jリーグではないものの、W杯アジア予選のシンガポールでのアウェイ戦での1点は良かったかな」
「Jリーグでの記憶に残るゴールは?」と質問された藤田は照れくさそうにそう語った。
 
 W杯アジア1次予選。格下相手のアウェイ戦は、中田英寿をはじめ欧州組が数多く先発した。しかし、高温多湿の劣悪な環境も災いし、日本は前半先制点を許してしまう。同点に追いついたものの、追加点が奪えずに苦しんだ試合を決めたのが、後半22分に途中出場した藤田のゴールだった。後半37分、CKのこぼれ球を後方から走り込んでゴールへ突きさした。

 高校、大学、Jリーグでと何度も日本一に輝いた藤田だったが、代表として定着したと言えるのはジーコジャパンになってから。しかし、若い海外組が台頭する中盤では控えに回ることも多かった。04年のアジアカップ優勝時には藤田などのバックアッパーの献身がタイトル獲得に大きな影響を及ぼしたと称賛されたが、「ベンチワークを褒められても、ね」と当の藤田はそのことを喜んだりはしなかった。フォア・ザ・チームの精神を体現できたのは、藤田がリアリストだったからだと思う。だからこそ、試合に出られない悔しさを表に出すこともなく、淡々と現状を受け入れて、最善を尽くすのだ。

 プロ入り後の藤田のプレーを目にしたときの印象は、“我の強い選手”というものだ。組織力とチーム戦術を重要視するハンス・オフト率いる当時のジュビロでは異質なプレーヤーに思えた。
「確かにプロになったころは、自分でなんとかしたいというプレーが多かったかもしれない。それでオフトにも怒られたこともあった。だけど、優勝争いができるようになってきてから、“勝つために”ということを考えたときに、周りの選手を使うことを意識するようになったんだ」
 98年初夏。初めてインタビューした藤田はそんなふうに意識の変化について語ってくれた。そして、その後、ジュビロは黄金期を迎える。その時代、司令塔と呼ばれたのはボランチの名波浩だったが、藤田は10番として、たくさんの試合を決め、勝利をもたらす仕事を積み重ねた。勝負へのこだわりは強い。だからなのか、藤田は敗戦を引きずることがなかった。
「負けたあとに、悔やんだり、嘆いたりして、勝ち点3が取り戻せるなら、幾らでも後悔する。だけど、失った勝ち点はもう戻らないんだから、次のことを考えるだけでしょ」
 いつ聞いたのかは、思い出せないけれど、この藤田の言葉は、非常に強く心に響いた。

「いいこと言うねぇ」
 現役引退という人生の節目に立った藤田にインタビューしたとき、彼はそう言って笑った。このときの記事は7月10日発売の『サッカーダイジェスト』に掲載されるが、この取材で彼はこんな話をしてくれた。
「(黄金期の)ジュビロは勝負強いチームだと言われていたけれど、今考えると、俺たちは“面白いサッカーをやりたい”という気持ちでプレーしていた。もちろん勝負だから負けたくないのが前提だけど。結果以上に内容を重視する部分もあった」

 当時のジュビロの強さを知る人ならば、同時にそのサッカーの質の高さも思い出すだろう。ボールと人が連動し、チーム戦術だけでなく、個人戦術も優れていた。先発する日本人選手のほとんどが代表選手であり、代表よりも強いと言われることさえあった。それでも彼らは貪欲に向上することを求め続けた。勝利の数だけでは満足できない……そんな思いがあったからこそ、“最強”と呼ばれる集団になったのだろう。
 そこから、すでに10年近い年月が流れ、Jリーグも様変わりした。残念ながら、日本代表以上に注目を集めるJクラブは少なくなり、その代表チームにもJの選手はわずか。リーグの質の低下が論議される機会も増えた。藤田の言葉にそんな悲しい現状を改めて痛感させられた。
 
「こっちのほうが大きい山だと思えたから、すんなりと決断できた」
 欧州での指導者を目指すという挑戦を決めるうえで、迷いはなかったと語る藤田。その表情は、「毎年優勝を目標にするのもなんだか、面白くないじゃん」と10数年前に話していたときと同じだった。自信に溢れ、清々しい野心がほとばしっている。
 プロ入り直後から、代理人と契約し、海外志向は強かった。それを実現させたのは32歳のときだった。遅かったかもしれないが、それでも目標を実現させた。ゆるぎない信念がチャンスを導きだしたのだろう。
 指導者としての藤田の未来は、明るいと約束されたわけじゃない。
「選手時代同様に競争に勝ち残っていかないといけない」と本人も覚悟はできている。険しい道のりだからこそ、突き進む価値がある。向上し続けるための労は惜しまない。それがサッカーに対しての敬意や愛情を表現する藤田なりの方法なのだ。